指導の方法に「これでよし」というものはないといつも思っている。
こんなやり方でこの先、若者達がどうなってしまうのか?
親が子供を育てるのと同じくらいに実は気になるもので当然、不安にもなるだろう。
しかし、やはり「信念」だけは持ち続けなくてはならいと信じる。
COJB流というならば、信念として、今厳しいものは、先にはもっと厳しい試練も時には愛情もなにもない厳しさを若者達は味あわなくてはならない時もある、だから時にその免疫を早い年代から少しずつつけていかなくてはならい。
プロという世界はある意味冷たいもの。決して温かい家庭の雰囲気はない。解雇されて、悩んでも解雇撤回される温情などはない世界。
泣いても、すがっても駄目なんだ。
目指すハードルが厳しければ厳しいほど、挫折する可能性は限りなく高く、ますます自分の思い通りになんかいかないものだ。
だから、また悩み、苦しむ。
小学生の頃に味わう挫折や悩みとは違い、時に多くの情報量に振り回されて我を失ってしまうこともあるだろう。
インファンにも子供から大人になって行くための一歩を踏み出しそうな選手もいて、これから一人の男として逞しく成長して行く姿を見るのが大変楽しみである。
インファン発足当初から貫かなくてはならない信念として、サッカー選手を目指す以上、地に足をつけて、より具体的に目指す。
それは誰もが見ることができる「夢」ではなく、具体的な「目標」
でありより早い年代から子供から大人の精神になって行く必要があるということ。サッカー選手はピークがくるのが早い。
自分自身、とにかくそれを味わせられた。
私があるクラブで試合にレギュラー出場している時は21歳。
一方、私のサブでプレーしていたブラジル人選手は僅か16歳。
その選手は後にビッククラブに買われ、ブラジル代表にまでなり、現在は某Jチームのエースだ。彼は既に私よりもプロとして大人だった。やはり、大物になる人間はそれなりの理由がある。
選手各々、当然育ってきた生活環境も違うし、性格も違う。
それぞれ与えられる試練も違う。
時に、自分だけが辛いことになっていると悲観する時もある。
でもね、そんなことはないんだな。
自分以上に苦しい思い、大変な思いをしている人は世の中には大勢いるんだな。
悩み、苦しい時。好きなことして悩んで、苦しむのは本当に幸せだと思う。「好きなこと」なんて無縁で苦しまなくてはならない人も大勢いるのだ。
でもね、それも各々与えられる試練は違うから、その試練に向かって立ち向かうことだよ。決して逃げ出してはならない。
いずれにせよ、答えは出る。
その答えが、良い答えならいいけれど、時に神のいたずらか、悪い結果になる場合もある。
ただそういう時こそ、試される時だと思うよ。
我々は普段生きていて、何が起こるか判らない。何かが起こってからジタバタしても遅いと思っている。
子供の時はただ好きでやっていたサッカーが、夢から目標に変えた時点で、周囲の要求度は少なくても変わる。
早期から注目される選手は子供ながらに大変多くのプレッシャーを感じそれと闘って成長して大人になっている。ここには年齢の若さなどは関係していない。
日本に限っては、他の競技にはそのようなプレスはあっても、サッカーにはまだないと思っている。
だから、日本の若い選手は18歳になってもまだ幼く見えるし、やはりコメントも幼い。
「厳しくされたからすねる」「その場から立ち去る」「つまらなくなる」こんなケースは少なくないとはおもうけれど、苦しみ悩んでいる若者に、いつどのタイミングで声かけや手を差し延べてあげればよいのか?は親は勿論、指導者だって迷うよね。
何度もいうけれど、その瞬間は子供から大人へ成長して行くための一歩、いや半歩なのかもしれないよ。
そこで大切なのは「信念」だと思う。
子供、大人関係なく、人間同士の信頼関係を築くのは容易ではない。
甘くないよね。でもね。やはり信念なんだよ。
子供やその若者を想う信念だ。
インファン、その支配下、トップの選手を含め、好きなことをしていて悩めることを尊く思って、成長してくれ!!
己に対して苦言を吐く人間が多ければ多いほど、君達は幸せ者だ。
それが例え、愛情がない苦言だとしてもね。
但し、険しいものに挑戦している時に限るかな。
乗り越えられる時って、賞賛され続けた言葉より、苦言の方が何故かバネになるんだよね。
ブラジル人選手が育つ所以には容赦ない苦言を吐く、ファン、マスコミを見返そうと這い上がるバネを持っているからも大きい。
COJBの選手全員に告ぐ!!
苦言、苦しみから這い上がれ!!バネにしろ!!
嵐はずっとは続かない。時折綺麗なお花畑に出会えることもあるよ。
自分を信じて立ち向かって欲しいね。
苦しさの乗り越え方で人間性が現れるという。サッカーを通じて大人になるということはそういうこと。
だからただのボール蹴りではないのだよ。
ということを少しずつ何かを通じて感じて貰いたいということも含まれる。
指導にはそれぞれの生き様が映し出されるものであるから。
それはその生き様を生徒に押し付けるものではいけない。

